@ リマの新市街と歴史地区  
     
A ナスカの地上絵観光  
     
B ウルバンバの高級山岳リゾート滞在  
     
C 世界遺産人気No1「マチュピチュ遺跡」  
     
D インティプンク遺跡とインカの橋  
     
E マチュピチュ温泉とマチュピチュ村散策  
     
F インカ帝国の首都「クスコ」  
     
G 一般情報  
     
  旅行日時:2010年9月10日〜9月20日
為替レート:1ドル=2.78ソル、1ドル=85円、1ソル=30円
 
@ リマの新市街と歴史地区
  世界遺産が好きな妻の願いをかなえるためにペルーに飛び、マチュピチュを中心にペルーの世界遺産をじっくり見学してきた。今回はアレンジ自由の現地係員対応「ペルー周遊11日間」を利用した。お世話になった旅行会社はマックス・エー(湘南営業所トラベルシーン)。旅行費用の総額は1人約40万円、コンチネンタル航空利用で飛行マイルも獲得でき往復で19552マイルになった。

2010年9月10日、15時55分、成田発コンチネンタル航空006便(写真1)に搭乗する。機種はボーイング777。エコノミーの座席配置は横3−3−3の9列でほぼ満席の機内である。ヒューストンまで約12時間のロングフライトである。

定刻よりも30分早くヒューストンに到着し、入国審査を済ませる。トランジットに2時間しかなく少々心配したが、余裕で次のリマ行きCO590便に搭乗する。ヒューストンからリマまで6時間半のフライト。これが辛い。トランジットを含めて成田から約21時間のロングフライトの後、現地時間22:30、ペルーのリマ空港に到着する。やはりペルーは遠い!

入国審査に相当時間を取られ、出迎えの日本語ガイドとリマのホテル「ミラフローレンス・コロン」(写真2)に着いたのは深夜零時をまわっていた。ホテルのロビーで日本語ガイドより旅行日程の細かな説明を聞き、各種チケット類をもらう。そして、ホテルの部屋(写真3)に入ったのが深夜1時をまわっていた。頭も体もフラフラ〜。熱いシャワーを浴びてすぐに寝る。

目覚めの朝!この日は時差ボケと体調を整えるために、基本プランにリマ1泊を追加し、完全に自由にしてある。ゆっくり起きて朝食レストランに行く。見知らぬ外国に着いた初日、昨夜はぐっすり眠れとても気分がいい。ビュッフェカウンターから適当に料理をピックアップして私の朝食メニュー(写真4)を作る。忙しい団体ツアーにはない、ゆとりの朝食タイム!

このホテルはリマの新市街「ミラフローレンス」にある4星ホテルでロケーションがいい。基本プランのホテルグレードは3星(マチュピチュ村は2星)であったが、我々の日程ではホテル滞在が長いので全ホテルを1ランク・アップした。

ホテルから海岸方面に5分も歩けばレストランやショップなどが集まる華やかなスポット「ラルコ・マル」に着く。ここは文句なく素晴らしい。ラルコ・マル(写真5)は高い崖の上に造られており、目の前には太平洋の大海原が広がる。ビーチを望む場所には多数のレストラン(写真6)が続き、夕陽を見ながらのディナーも楽しめる。ラルコ・マルの真正面、太平洋に向かって「JWマリオット・ホテル・リマ」(写真7)が聳え立つ。豪華なロビー・フロントを期待して入ってみると1階は巨大なカジノになっていた。

ラルコ・マルから北西方向に海岸通りを歩く。太平洋が素晴らしい。ただし、リマは海岸砂漠地帯に位置し、年間を通してほとんど雨は降らないが、7〜8月の冬の間はガルーアという霧が空を覆いどんよりした曇天の日が続くという。

長い橋を渡って「恋人達の公園」に向かう。海(写真8)では沢山のサーファー達が果敢に波にトライしている。見上げると、プロペラ付パラグライダー(写真9)が大空を舞う。恋人達の公園の横にパラグライダーの発着場があり、目の前から断崖絶壁の海に飛び立つ。自分で自由に大空に舞い上がれたらどんなにか素晴らしいかと思うが、残念ながら今の私には勇気も意欲もない。

ラルコ・マルから10分も歩けば「恋人達の公園」(写真10)に着く。ハート型に植えられた花がいかにも恋人達の公園を象徴している。そして、愛し合う恋人の巨大なモニュメント!大胆なデザインに南米の明るさを感じる。

海岸公園から再びラルコ・マルにもどり、今度は海岸に背を向けてミラフローレンスの大通り「ラルコ通り」を北に進む。巨大なカジノ(写真11)が至る所にある。社会見学(食料品価格調査)のため24時間営業のスーパー「ビバンダ」(写真12)に入る。店内は広く食料品は何でも売っている。水はスーパーや街の小さな売店で買えば600mlのボトル1本が1ソル(30円)程度で安い。

リマ市内の物価は場所によってピンからキリまで変わり、気楽なコーヒーショップでは5ソル〜8ソル(150円〜240円)で軽い食事が出来る。コーヒーやカフェラテ(3ソル〜4ソル、90円〜120円)を追加してもたいしたことはない。最も安いのは、市内の至る所にある小さな売店(やや汚く入りずらいが)で、私はよく利用した。バナナ2本、みかん2個、スイーツ2個を買って合計2.7ソル(81円)。ホテルの部屋でお湯を沸かし持参のティーパックで紅茶を作り簡単な昼食にした。1人約40円の激安ランチ!

午後2時過ぎから、英語ガイド乗合ツアーによるリマ市内観光に参加する。ミラフローレンスのホテルを回ってお客をピックアップし、集合場所で英語ガイドバスとスペイン語ガイドバスに分乗する。早口の英語ガイドの説明はほとんど聞き取れない。日本語ガイドブックが役に立つ。

サン・マルティン広場(写真13)の周囲は白亜の高層ビル(写真14)に囲まれ見事な景観をなしている。昼間は市民や観光客で賑わうサン・マルティン広場であるが、夜はひっそりとして物騒になるらしい。ツアーバスも写真撮影だけで次の目的地に移動する。

リマ旧市街の中心「アルマス広場」に行く。1535年、首都をクスコからリマへ移すと決めたフランシスコ・ピサロは、アルマス広場を中心にスペイン風の町を築いていった。アルマス広場の正面に堂々とそびえる「カテドラル」(写真15)が見事!このカテドラルはピサロ自らが礎石を築いたという。

アルマス広場に面して建つもう1つの堂々とした建物が「ペルー政庁」(写真16)である。ペルーのアルベルト・フジモリ元大統領の長女で国会議員のケイコ・フジモリ氏が2011年の大統領選挙へ出馬しているという。フジモリ元大統領については、政治的スキャンダル等あるが、「ペルー経済を立て直し、ペルーをテロの脅威から救った彼の功績は大きい」「長女のケイコ・フジモリ氏の大統領出馬を支持する」と、旅先で知り合ったペルー人(医師)が言っていた。以前はペルー国内でさえ怖くて自由に旅行が出来なかったという。

1996年12月に起こった「在ペルー日本大使公邸占拠事件」とフジモリ大統領の勝利の凱旋テレビ中継を私は今でも覚えている。その時の印象が強かったので「危険な国ペルー」のイメージが私の頭の中で定着していたが、今回の旅行でかなり緩和した。

ツアー最後に「サン・フランシスコ教会・修道院」(写真17)の中に入る。修道院のパティオ(中庭)を囲む回廊に残された17世紀前半のセビリアンタイルによる壁画鑑賞、そして、修道院地下に眠るカタコンベ(地下墓地)をじっくり見学する。

夕焼けのミラフローレンス地区の海岸(写真18)は素晴らしい。サンセットを眺める恋人達、ラルコ・マルで買い物や食事を楽しむファミリー、若者達。ここは洗練された安全な場所で日本の都会のショッピングモールと変わらない。夕食はラルコ・マルのテイクアウトショップで軽く(安く)仕上げ、早めにホテルに帰る。そして、夜9時にはベッドにもぐり込み、明日のナスカの地上絵観光に備える。

 
     
A ナスカの地上絵観光
  リマからナスカの地上絵観光(日帰り)をする場合、2つのオプショナル・ツアーがある。(リマの日本人経営の旅行会社「ミッキー・ツアー」利用)括弧内は1人分の代金なので結構高い。
@定期バス+英語ガイド混載ツアー(34000円)‥‥片道7時間強のバス、30分の遊覧飛行、昼食、早朝発・深夜着
A専用車利用・ピスコ発遊覧飛行(43000円)‥‥片道4時間弱のタクシー、90分の遊覧飛行、昼食、早朝発・夕方着

安全と時間短縮を考えて我々はAを選びナスカの地上絵を見てきた。ただし、リマからの日帰りツアーの場合、一発勝負で、この日の天気が悪化したら、地上絵が見ずらかったり、最悪、フライト中止もあり得る。どうしても地上絵が見たければ、ナスカに泊まるプランのほうがいいかもしれない。当日の午後と翌日の午前の2回のチャンスがある。

9月12日(日)午前4時起床、4時半朝食、5時出発という無茶苦茶なスケジュールである。朝食は前夜、ホテルのフロントに早朝出発の旨を連絡しておくと出発時間に合わせてコンチネンタルの朝食を用意してくれる。

ホテルの外は寒い。防寒をしっかりして、スペイン語ドライバーの専用車(タクシー)に乗りこむ。「ブエノス・ディアス!(おはよう)」「ミッキー・ツアー?」「Go to ピスコ?」「ナスカ・ツアー?」等、単語を並べて、間違っていないか確認する。

外は真っ暗なのでタクシーの中でしばらく仮眠する。しかし、気持ちが高まっているせいか、あまり眠れない。朝7時過ぎになると夜が明けてきたが、空にはどんよりとした雲が覆い視界も悪い。嫌な予感がする。このままピスコ・ナスカも曇っていたら今日のフライトは最悪である。

しかし、奇跡が起こった。タクシーがピスコに近づくと雲が消え、真っ青な空が出てきた。そして、ピスコ空港(写真19)に到着。約3時間半のドライブである。晴れ渡った空!風もなくナスカの地上絵観光には申し分ない天気である。夫婦共に大喜びし神と仏に感謝する。

日本人ツアー「ユーラシア旅行社」のバス1台が空港の駐車場に止まっている。我々のフライトの1本前の便に乗っているようである。チェックインの時にパスポートの提示を求められるかな?と思ったがパスポートナンバーの記入だけだった。ピスコ空港税3.65ドルを支払いチェックインを完了する。

午前10時過ぎ、12人乗りのセスナ機(写真20)に乗り込む。座席配置は横1−1の2席だけで、全員が窓側(写真21)になり不公平はない。乗客の半数は日本人。いざ、テイクオフ!この瞬間がたまらない。ピスコからナスカまで30分間水平飛行し、ナスカで約30分間地上絵遊覧飛行、その後、ピスコまで30分間かけてもどってくる。

天気が良く、風もないので小さなセスナでも安定している。ほとんど揺れることなく快適な水平飛行を続ける。乗客の皆さんは大喜びでカメラ撮影している。セスナが上空に行くにつれてアンデス山脈(写真22)が見えてくる。意外に山が近い。

さて、謎多き「ナスカ地上絵」誕生の年代測定は炭素の放射性同位元素によって正確になされ、紀元後300年〜800年にかけてのものと判明した。そして、地上絵の線は黒い地表の小石を取り除き、そこに溝を掘って明るい地肌を露出させたものという。溝の幅は20p、深さは10pほどで、近くでみると車のわだちのようにしか見えないという。しかし、空からみると巨大な幾何学模様や様々な絵が浮かびあがってくる。未だ解明されていないミステリーをこれから見に行く。

何気なく下を見ていると、広大な大地に何本もの直線(写真23)が走っているのが見える。最初は道路かな?と思ったが、これこそナスカの不可解な直線で300本以上あるという。そして、単なる直線から今度は台形に変わる。上空から見るとまさしく「滑走路」(写真24)である。

ある図形は、小山(遺跡)の頂上を基点に2本の直線が延び、1本は直角に折れ曲がって他の1本と平行に進む。見事な長方形(写真25)を描いている。あまり真剣に下ばかり見ていると酔う恐れがあるので、時々遠方の風景を見てリラックスする。

ナスカの地上絵を世界的に有名にしたのがアメリカの考古学者・天文学者「ポール・コソック」で、彼は、1939年6月22日、ナスカ川とインヘニオ川の間に位置するナスカ台地を飛行機で飛んでいて、無数の線や巨大な地上絵を発見したという。

ポール・コソックの研究を受け継ぎ、ナスカの研究に半生を捧げたのがドイツ人「マリア・ライヘ」である。彼女は50年以上の歳月をかけて地上絵の解読と保存に人生を捧げた。彼女は砂漠に住み込み、わらぼうきで地上絵の線を掃き清め、略奪から身を守り、疲れを知らずに亡くなる1998年まで研究と保存に努めたという。(偉い、拍手!)

いよいよナスカの地上絵のご登場である。まずは「サル」(写真26)。サルの体の部分は80m、尻尾は30m、合計110mの巨大絵である。お次は「蜘蛛(クモ)」(写真27)この蜘蛛は46mの大きさでペルーのシンボルとして雨(豊饒と豊作)に関連しているという。次は「ハチドリ」(写真28)。大きさは96mもある。ナスカ文化の人々にとって鳥は特別な存在であったらしい。地上絵にも「コンドル」「オウム」「ペリカン」「ハチドリ」等、複数の鳥が描かれている。

パンアメリカン・ハイウエイ脇に立つ「ミラドール(観測塔)」(写真29)の前に大きな「木」(97m)と「手」(45m)が見える。この地上絵の手の指が4本と5本になっているのも謎である。カメラに収まりきらない「オウム」(写真30)の絵は200mもの大きさがある。巨大絵は豊饒と豊作に関連があり、同時に神聖なる儀式の魔術を表しているとも言われる。

ナスカ地上絵観光の30分間は、パイロットがサービス精神を出して左先回・右旋回を繰りかえす。これが一気に船酔いを誘い急に気持ちが悪くなる。「やばい!」。遠くの景色(写真31)を見て気分を落ち着かせる。ピスコへの帰り道は水平飛行なのでそれ程揺れない。しかし、皆さんお疲れ(船酔い)ぎみで機内は静かである。1時間半のフライトを終了し、無事にピスコ空港に到着する。

12時頃、ピスコ飛行場からスペイン語ドライバーの専用車で本日のランチのレストランに向かう。レストランはピスコ海岸(写真32)に面したシーフード・レストラン「プロ・ピスコ」。店内(写真33)に入ってみると、ユーラシア旅行の一行がランチを終える頃であった。

本日のランチはペルー名物「セビーチェ」(写真34)、ソフトドリンク付き。メインは「ペルー風魚介類のパエリア」(写真35)で結構うまかった。デザートに「プリン」。満足のいくランチであった。午後2時頃、再び専用車に乗り、リマまで帰る。車内では熟睡である。リマのホテル到着は午後5時半頃だったので、夜は再びミラフローレンス地区の「ラルコ・マル」へ出かけ夕食をとる。

 
     
B ウルバンバの高級山岳リゾート滞在
  ペルー旅行の最大の難関は高山病である。海抜ゼロのリマから標高約3400mのクスコに一気に飛行機で来ると、ほとんどの観光客が高山病にかかる。頭痛、吐き気、不眠‥‥。楽しい海外旅行でこんな症状が出たらたまらない。そこで我々は、クスコ到着後、市内観光をカットし、クスコから600mほど下ったウルバンバに直行した。お昼過ぎにはウルバンバのホテルにチェックインし、午後から夜まで限りなくのんびり過ごした。おかげで吐き気もなく、頭が重くなる程度で高山病を回避できた。

9月13日(月)午前4時起床、5時半ホテル出発。連日の早朝出発に体も慣れてきた。午前8時半発、クスコ行きのスターペルー航空の飛行機に搭乗する。リマからクスコまでアンデス山脈(写真36)を越えてフライトするので、窓側の席がおすすめである。1時間20分の国内線のフライトであるが、飲み物と軽食のサービスがあった。

ほぼ定刻(9:50)にクスコ空港(写真37)に到着、山の斜面に住宅が広がり壮観な眺めである。しかし、緑が少ない。やはり、乾燥した砂漠の気候なのだろう。空気が薄い!深呼吸を心がけゆっくり歩く。

クスコ空港にて出迎えの日本語ガイドと一緒に専用車でウルバンバに向かう。クスコは盆地に発達した町なので、車は中心街を過ぎると坂道を登っていく。途中、クスコ市街(写真38)を一望できる場所で車を停めてもらい写真撮影をする。壮観な眺め!さすがインカ帝国の首都。

クスコからウルバンバ、オリャンタイタンボへ至る周辺(地図参照:写真39)は、インカ帝国の時代より様々な集落が形成され「聖なる谷」と呼ばれている。車はクスコからポロイ、チンチェーロと山道を通ってウルバンバに向かう。車窓には素晴らしいアンデスの山岳風景が広がり、嬉しくなる。写真の地図:ANDES NIPPON TOURISTのホームページより

標高3762mのチンチェーロ村に近づく。日干しレンガの家が所々にあり牛、豚、羊が草を食む。のどかな風景が広がる。クスコの水源地「ピウライ湖」を過ぎたあたりのビューポイントで車を停めてもらい周囲の風景を写す。遠くに万年雪をかぶったアンデスの高峰(写真40)が見える。マチュピチュ方向に豊富な万年雪を抱いたベロニカ山(写真41)も見える。

しばらく高原道路を進み、次に、ウルバンバの谷を望む絶景(写真42)の場所で車を停めてもらう。深い谷底にウルバンバ川が流れる。ここはクスコ→ウルバンバの最高のビューポイント!反対側は広い台地になっており、これから雨季を前に、じゃがいも、そら豆、グリーンピース、麦、等の種まきをするという。

季節は2つに分けられ、11月〜4月にかけての雨季とそれ以外の乾季が存在する。湿気が多くなる雨季は、山々に緑が広がり、温暖な気候が続く。その一方、乾季は日中の日差しが強くなるが、夜や早朝などはかなり冷え込む。

高原大地の上に広がる「ウアイポ湖」(写真43)が見えてきた。ここではマスの養殖がなされているという。ウアイポ湖からはウルバンバの谷に向かって一気に下っていく。誠に見事な山岳風景(写真44)に満足する。ウルバンバの町(写真45)を通り抜ける。途中で、町の小さな売店に寄ってもらい、食料(りんご、バナナ、トマト、パン、水のボトル多数)の調達をする。高山病対策のため、夕食はフルーツを中心に部屋で軽く済ませる予定である。

ホテルに着く前に、ペルーに残る古民家のピカンテリア(写真46:一杯飲み屋、郷土料理屋)に立ち寄る。色々な種類のトウモロコシが天井から吊り下げられている。トウモロコシを乾燥させて酒を作るという。簡単な釜戸を使って何か料理(写真47)をしている。

午後1時頃、本日の宿泊ホテル「カサアンディーナバジェサグラド」(写真48)に到着。マントルピースを囲むように造られた円形のロビーラウンジ(写真49)に入ると、ここが高級山岳リゾートであることが分かる。チェックインを済ませ、ボーイに荷物を運ばせて客室に向かう。このホテルは広い敷地に低層階の客室棟(写真50)が何棟も階段状に造られ、周囲にはグリーンの芝生とカラフルな花々が植えられ美しい。この風景を見ているだけで幸せになる。

我々の部屋に入る。床は木、壁と天井は真っ白のモルタル、そして大きめのツインベッド(写真51)が部屋の中央に置かれている。薄いカーテンを開けるとそこは屋内バルコニー(写真52)であった。寒さを感じずに外の景色が楽しめる。バスルームも広くて使い易そうだ。おまけにバスローブまで揃っている。完璧リゾートホテルに夫婦共大喜びする。ホテルのグレードアップ計画大成功。

まだ二人とも高山病の症状は何もない。ホテルのレストラン(写真53)に昼食をとりに行く。レストラン内にはお客が1グループのみで非常に静かである。月曜日の昼下がり、ペルーの山奥、聖なる谷ウルバンバの高級山岳リゾートで優雅なランチのはじまり。大いに期待しよう。

まずは、飲み物として2人ともインカ・コーラ(7ソル、210円)を注文。日本のサイダーに似ていて飲みやすくうまい。温かいパンにバターをつけて食べる。お腹が減っているので実にうまい。メインに肉料理「ロモ・サルタード」(写真54:38ソル、1140円)を注文、これは牛肉を細切りにしてタマネギ、ピーマンと炒めたペルーの伝統料理である。残念ながら牛肉がかたく、やや不味い。

もう1つのメインに魚料理「トゥルチャ・ア・ラ・ブランチャ」(写真55:40ソル、1200円)を注文、これはマス(トゥルチャ)のムニエルで非常にうまい。付け合わせを含めて残さず食べる。税・サービス料を含めて本日のランチは合計92ソル(2760円)だった。現地の物価水準からすれば超高額料理であろう。

ランチの後はホテルの施設見学に出かける。私はこれが結構好きである。カメラを持ってホテルの施設を見学していたら、頭が重くなってきた。ヤバイ、頭痛になる。芝生の上のラウンジチェアー(写真56)で休むことにする。空気が薄く酸欠になりそうだ。ここで1時間近く寝転がって深呼吸をする。

ホテルの裏庭にはアルパカが飼育されている。アルパカは南アメリカ大陸の、特にペルー、ボリビア北部、チリ北部の、海抜およそ3,500 - 5,000mのアンデス湿潤高原地帯で放牧されており、極めて良質な毛がとれる。

民族衣装を着た女性達(写真57)が大きな風呂敷を背負ってホテルの裏側を歩いてくる。彼女達はホテルフロントから客室棟へ向かう通路脇で即席の土産物屋を開くのである。お客が通りかかると「1ドラー、1ドラー」と呼びかけてくる。ホテルの客は少ない。1日何個の土産物が売れるのであろうか?

寒くなってきたので部屋に入り熱いコカ茶を飲む。コカ茶は高山病対策に効果があると言われフロントに常設されている。部屋で休養していても「頭の重さ」はとれない。幸い、頭痛までには至らず、吐き気もない。これなら大丈夫。夕方の風景(写真58)を撮影するために再びホテル内を歩きまわる。ただし、非常にゆっくり、のんびり歩く。急ぐと一気に頭痛になる。

夕方、ロビーに行くと日本人の団体約20人くらいがチェックインするところだった。中高年の団体であるが全員が大きなリュックを持っている。興味があったので聞いてみると、「明日から3泊4日でインカ道を歩く」とのこと。道中の宿泊はホテルではなくキャンプという。高山病のリスクを背負い、(恐らく大金を払って)日本からはるばるペルーまで登山にやってくる日本人中高年に敬意を表する。

快適な客室で熱い紅茶を沸かし「りんご、バナナ、トマト、パン」で簡単な夕食にする。夜空には星が輝いている。明日の晴天を信じて、午後9時には眠りにつく。しかし、夜中に何度も目が覚め心拍数も早くなる。その都度、水を飲み深呼吸をし、次の眠りに入る。高山病はあなどれない‥‥。明日はいよいよ「マチュピチュ」だ!

 
     
C 世界遺産人気No1「マチュピチュ遺跡」
  人はミステリーに弱い。マチュピチュは世界遺産の中でも日本人No1の人気を誇る。これはマチュピチュが日本から遥か彼方の秘境にある「謎の空中都市」だからであろう。我々も、ペルー旅行の第1の目的は「マチュピチュ」である。よって、天気が悪化してもいいように、基本プランに1泊延泊して「マチュピチュ村2泊3日」の余裕の計画をした。

9月14日(火)、目覚めの朝の気分は良好で、高山病にならずに一夜を過ごせたことに感謝する。今日は天気も良くマチュピチュ観光が期待できそうである。朝5時40分、スペイン語ドライバーによる専用車でホテルを出発し、オリャンタイタンボ駅に向かう。その後、6時30分発のインカレイル41号(写真59)に乗る。インカレイル41号の車内(写真60)は結構豪華そうであるが、座席はテーブルを挟んで4人がけであり、足元に荷物が置けないくらい狭い。

オリャンタイタンボ駅を出発した列車はウルバンバ川(写真61)沿いにマチュピチュ目指して下って行く。標高が下がっていくのがいい。マチュピチュ村は標高2000m程度なので高山病の心配はない。周囲の山々は高く、時々雪をかぶった高峰が見える。途中、ソフトドリンクとお菓子(クッキー、チョコレート等)のサービスがある。朝の光がウルバンバ川や周囲の山々を照らし美しい山岳風景が展開する。

山の斜面にインカの遺跡やインカ道が見える。インカ道は、スペイン人征服者が「わが国のどこを探してもこんな美しい道はない」と言ったほど、広く美しいものだったらしい。しかし、インカには車輪がなく馬車が発達しなかった。古代ローマ帝国との大きな違いである。

インカ道は北はエクアドルのキトから南はチリのサンティアゴまでインカ帝国の端から端までつながっていた。インカ帝国がスペインの侵略で滅亡するとともにインカ道は滅びてしまった。巧妙に隠されたマチュピチュ遺跡がスペイン人の侵略から免れたように、西洋人の目にふれない謎の道があった。クスコとインカの秘密基地をつないだビルカバンバの山道だ。現在、その一部が「インカ道トレッキング・コース」になっている。

午前9時、英語ガイドによるマチュピチュ遺跡ツアーに参加する。ツアー参加者はアメリカ人老夫婦と我々の合計4名のみだった。マチュピチュ村から約30分間、混載バスに乗って山の急斜面を上る。遺跡入り口には超高級ホテル「サンクチュアリー・ロッジ」(写真62)がある。1泊3食付ツインルームで76000円〜112000円(2010年11月宿泊、2名分の代金、エクスペディア調べ)

マチュピチュ遺跡入り口付近にスナック・バー「エル・ミラドーア」(写真63)がある。サンドイッチ等軽食があるのでランチにいい。背後の山はワイナピチュである。遺跡に入るとすぐに「農地管理人住居跡」(写真64)が見える。山の急斜面に幾つもの小屋が建っている。小屋の中に入ると室内は意外に大きく、穀物の貯蔵庫としても十分機能したと思われる。

ルート表示に従って左手の森の中に入っていく。しばらく急な登山道を登っていくと突然視界が開け、謎の空中都市「マチュピチュ遺跡」(写真65)とご対面する。感動の一瞬!ここで英語ガイドは一通りマチュピチュ遺跡の説明をする。アメリカ人老夫婦は歴史に興味があるらしく盛んに質問している。我々は蚊帳の外?

マチュピチュでは高貴な人、エリートしか市街に入れなかったという。マチュピチュ市街への厳重な門(写真66)をくぐって中に入る。

ここでインカ帝国の歴史を勉強してみよう。第9代皇帝パチャクティが即位する以前、インカ族は、クスコ盆地に生活する小さな国家に過ぎず、周辺の民族との勢力均衡に気をつかっていた。しかし、1438年ごろ、クスコに侵攻してきたチャンカ族を破ったパチャクティは、余勢を駆って積極的に征服に乗り出した。

パチャクティと後継の王たちは、アンデス特有の標高差を利用した伝統的な農業を国家規模で統合し、生産性の高い熱帯森林帯の開拓も行った。敵対していた周辺民族も豊かな実りを求め、インカの統治を受け入れた。こうしてパチャクティは、王子トパ・インカとともに、戦って領土を奪うよりも、むしろ飢えのない豊かな暮らしを人々に与えることを基本として、言葉の違う80の民族を50年で統一したと言われる。

王女の宮殿(写真67)を囲む石積み(写真68)が見事である。1つ1つの石が正確な直方体で積み上げられ、石の間には全く隙間がない。絶壁の尾根の上に造られた空中都市で最も大切なものが「水」である。太陽の神殿脇にある水汲み場(写真69)には今でも水が流れる。水は遠くの山から石の溝を伝わって流れてきているという。
インカ帝国は「ミイラと生けにえを利用した戦略」を採用した。皇帝は死後ミイラとなって権力を永遠のものとし、貴族や使用人たちはその権威にあやかり、皇帝の死後もそのミイラに仕え続けることで領地や地位を守った。「陵墓」(写真70)と呼ばれる遺跡が残り、ミイラの安置所だったとされる。一方で、領地を相続できない次の皇帝は新たな土地に進出しなければならず、これが帝国の拡大を促す一因となった。

インカは、また生けにえを国家的儀式とすることでも支配を強化した。地方の聖地にも敬意を払って貴族の子供達を生けにえとして捧げ、同時にその子供をワカ(神、聖なる存在)とする新たな聖地をも作り上げた。人々はその見返りしとしてインカへの忠誠を誓った。
近年、アンデスの雪山から少年少女のミイラが発見された。解剖の結果、食べ物をたくさん食べ、お酒を飲まされて眠ったところを置き去りにされたとのこと。日本人にとっては恐怖の「子供の生けにえ」と「ミイラ信仰」はインカ帝国を理解するキーワードである。

水汲み場の階段を上がり大石が転がる石切り場を越すと「神聖な広場」と「インティワタナ」を正面に見るビューポイント(写真71)に来る。急な階段を慎重に下り、神聖な広場の前に立つ。広場の東側には「3つの窓の神殿」(写真72)があり、インカ発祥の伝説が残る。広場の北側には「主神殿」(写真73)があり、幅8mの大きな神殿は3方を壁に囲まれている。

マチュピチュ遺跡の最高地点に「インティワタナ(日時計)」(写真74)がある。高さ1.8m、突き出た角柱は高さ36cmで、角柱の各角は東西南北を示している。手をかざすと石からパワーがもらえるというので、何度もトライしてみる。

インティワタナから絶壁側の狭い道を少し下る。それにしてもすごい所にすごい段々畑(写真75)を作ったものだ。太陽が沈む西側の段々畑は穀物生産のためではなく神への感謝の捧げ物を置いたといわれる。マチュピチュを発見したハイラム・ビンガムは、1911年、この急斜面を登って来たという。

インティワタナからの狭い道を下ると「大広間」(写真76)に来る。緑の芝生が美しい。正面の城壁内に階級別の居住区がある。居住区の中にある「石臼」(写真77)がある。ビンガムを先導したガイドの少年がこれを石臼として利用したことから、今でも石臼と呼ばれる。

太陽の下での遺跡観光は暑い。ワイナピチュが見える木陰でしばらく休む。ワイナピチュ登山は少々危険であり、入山制限のため早朝からバス停に並ぶ必要がある。若くもない我々はそこまでする気力がないのでワイナピチュ登山は遠慮しておく。英語ガイドによる午前中の遺跡見学最後が「コンドルの神殿」(写真78)である。地面の石は本当にコンドルに似ている。

本日のランチは「サンクチュアリー・ロッジ」のレストラン(写真79)にて豪華なビュッフェである。午後1時過ぎに入店したが非常に込んでいる。ビュッフェの種類は多く、前菜、サラダ、メインと、少量ずつ取り分けて自分のランチメニュー(写真80)にする。どれもうまい! お次は、スープ、パン、パスタ、チャーハン(写真81)。これもGood。最後に、フルーツ、デザート、そしてコーヒー(写真82)。完璧なランチビュッフェに満足する。

ランチの後、再び遺跡観光(ガイドなしの自由観光)に出かける。16世紀半ば、インカの人々は高度な文明が栄えたマチュピチュを捨て、更に奥地へと移動してしまった。その理由は分からない。

その後400年にわたって人目に触れることはなく、1911年にビンガムによって発見されたときには、草に覆われた廃虚となっていたのである。マチュピチュにまつわる多くの謎は、未だに解明されていない。マチュピチュの謎にとりつかれた若き女性(写真83)が一心にワイナピチュを見ている。

マチュピチュ遺跡の東側の段々畑(写真84)は壮大なスケールを持っており、見る者を圧倒する。写真背後の山は標高2940mの「マチュピチュ山」。段々畑は急な斜面を下方まで続いている。太陽がよく当たる東側(写真85)では作物の生産が行われた。

段々畑にはリャマ(写真86)が放牧され、のんびり草を食む。しかし、断崖絶壁の場所である。天気がいいので見張り小屋付近に沢山の観光客が集まってきている。人々は段々畑に腰掛け、マチュピチュ遺跡の絶景(写真87)を飽きることなく見ている。我々も芝生の上に寝転がって仮眠したり、マチュピチュ遺跡をぼんやり眺めたりして午後のひと時を過ごす。この時間の余裕は貴重だ。

マチュピチュ遺跡の閉門は午後5時、バスの最終は5時半。我々は閉門近くまで山に残り、夕暮れのマチュピチュ遺跡(写真88)とその周りの山々の移り変わる風景を味わった。

 
     
D インティプンク遺跡とインカの橋
  マチュピチュではワイナピチュ登山が人気であるが、インカ道を歩く「インティプンク遺跡」へのハイキングもいい。片道1時間程度で行けてマチュピチュ遺跡やワイナピチュを高所から見渡せる。また、もっと手軽にインカ道の凄さを体験できるのが「インカの橋」見学である。片道20分程度で絶壁に造られた「インカの橋」に着く。少しの距離ではあるが、これらのインカ道を歩くことによってインカ帝国のイメージが広がる。インカ帝国恐るべし!

我々のマチュピチュ村での宿泊ホテルは駅のすぐ裏手にある3星ホテル「インティプンク」(写真89)である。ごく普通のホテルで客室は狭い。マチュピチュ村は遺跡見学や登山の基地なので朝が早い。朝食レストランは朝5時からオープンなので早めにレストランに行き自分流の朝食メニュー(写真90)を作る。種類はそれ程多くはないが、これで十分であろう。パンとコーヒーがイマイチ。それ以外はおいしい。

9月15日(水)朝7時、ホテル出発。この日は自由観光なのでバスチケット(往復12$)遺跡入場券(122ソル)を購入(合計約4700円)して再びマチュピチュ遺跡観光に出かける。見張り小屋の東側には広いテラス(写真91)があり、今日は、このテラスの下についているインカ道を「インティプンク」へと歩く。雲がかかったワイナピチュは幻想的で悪くはない。

「インティプンク」へのインカ道(写真92)は非常に整備されており歩き易い。この道はマチュピチュから遥か彼方にあるインカ帝国の首都クスコまで続いている。インカ皇帝が1年に1回、この道を通ってクスコからマチュピチュまでやって来たという。

眼下にサンクチュアリ・ロッジ(写真93)が見える。広い芝生に面したテラス付の客室(マウンティンビュー・テラス付)に泊まれば極上のマチュピチュが体験できる?ただし、お値段も極上で1泊3食付き2名で10万〜12万円である。インカ道を修理する人達(写真94)に出会う。ご苦労様。

急峻な山の登山道にもかかわらず、インカ道(写真95)は非常に整備されている。インカ皇帝は決して歩かず、どんなに険しい道でも従者にかつがせたという。不思議なことに、一般の庶民は川が流れる下の道を通り、皇帝や貴族など高貴な人達は山道(インカ道)を通ったという。

正面にインティプンク遺跡(写真96)が見える。ここにも急峻な斜面に段々畑が作られており、段々畑は深い谷底(写真97)に落ちていく。段々畑は下方から作り上げてきたということだが、一体どうやって(手作業で)作ったのか? インティプンク到着。ここは標高2720mで、ワイナピチュの山頂(2690m)より高い。

インティプンクから先、インカ道はどこまでも続く。3泊4日のインカ道トレッキングに参加すると、登山者は密集した植物に覆われた原野を抜け、ジャングルのような山や白く雪の積もる山を越えて、ここインティプンクに着く。そして、インティプンクの峠に立ってはじめてマチュピチュ(写真98)と対面する。感激もひとしおであろう!

インティプンクとは太陽の門を意味する。冬至と夏至の日の朝、ここの門(写真99)を通った光がマチュピチュ遺跡の「太陽の神殿」の2つの窓から中に入り暗い神殿内を照らすという。この設計は古代エジプトのアブシンベル神殿における「太陽の奇跡」と同じ。詳しくは以下の私の旅行記参照。
http://4travel.jp/traveler/funasan/album/10434370/

インカ道トレッキング隊もインティプンクの手前で前夜のキャンプを張り、早朝、インティプンクに登る。そして、朝日がインティプンク(太陽の門)を通ってマチュピチュ遺跡を照らす瞬間を拝む。インカ皇帝が通った道を、自ら歩いてマチュピチュに行くインカ道トレッキングは人気が高い。古(いにしえ)のインカの時代に想いをはせながらインティプンクを後にする。

マチュピチュ遺跡内にはトイレがない。よって、インティプンク・ハイキング終了後、一旦、遺跡を出てランチ・トイレ休憩をする。遺跡入り口付近にあるスナック・バー「エル・ミラドーア」に入る。各種サンドイッチ(写真100)があるのでランチにいい。野菜サンドイッチ(20ソル、600円)を買う。アボカドが沢山入っている野菜サンドでそれ程うまくはない。営業時間は7:00〜16:00

ランチ休憩の後、「インカの橋」見学に出かける。インカ道は整備されて歩き易いが、断崖絶壁の小道なのでスリルがある。途中に段々畑(写真101)が作ってある。これは「畑」ではなくて、土砂崩れ防止のためらしい。現代の砂防ダムのようであるが、断崖絶壁に作り上げるというのが凄い!

左側はそそり立つ巨大な壁、右側は谷底まで切れ落ちた断崖、その真中にインカ道(写真102)が作られている。垂直に切れ落ちた断崖に、石で積み上げた用壁(写真103)が作ってある。どうやって下から石を積み上げていくのであろうか?

石のガードレール(写真104)も出来ているのに驚く。これがなかったら怖くて歩けないし、恐らく土砂崩れで道が崩壊していたであろう。よく見ると、石のガードレールの所々に穴があいている。豪雨の時の排水口の役目をすると思われる。

いよいよクライマックス、「インカの橋」(写真105)が近くなる。ほぼ垂直な一枚岩の絶壁に石を組み、橋を架ける。橋(106)には3本の丸太が架かっており、敵が侵入してきたら丸太を落とす。難攻不落のインカ道である。この先は進入禁止。

雨がパラパラしだしたので午後3時頃に下山し、マチュピチュ村(写真107)に帰る。マチュピチュ村は小さく、それ程魅力的でもない。日本の山間に開けた温泉街という雰囲気である。今夜のディナーのレストランを探しに村をぶらぶらする。これが楽しい。旧アグアス・カリエンテス駅のホーム(写真108)にはレストランが軒を並べる。

人通りの多い通りに面したレストランに入り、屋外の席に座って今夜のディナーにする。ピザ(22ソル、660円)とトラウトのムニエル(写真109:25ソル、750円)を注文。両方ともGood。マチュピチュ村にはピザ屋がやたらと多く、なぜか値段も同じくらいである。2日間にわたってマチュピチュ遺跡を十分堪能したので安らかな気持ちになって眠りに入る。(午後9時就寝)

 
     
E マチュピチュ温泉とマチュピチュ村散策
  9月16日(木)快晴。皮肉にもマチュピチュに来て一番天気がいい。久しぶりに朝寝坊をする。今日は遺跡観光には出かけないのでゆっくり朝食を食べる。その後は妻はホテルでのんびりし、私はタオルと水着を持って朝風呂に行く。目的地はマチュピチュ温泉である。

マチュピチュ温泉へは村の中心「アルマス広場」(写真110)から東のメインルートを上がって行く。通りの両側にはレストラン・カフェ・ショップが並んでいる。小さなホテルの看板を見ると、何と朝4時半からレストランがオープンして、朝食ビュッフェが28ソル(840円)である。

温泉入り口で料金(10ソル、300円)を払いさらに進む。山深い渓流にかかる橋を渡る。日本の渓流と同じ雰囲気で違和感はない。渓流沿いに温泉(写真111)が造られている。しかし、温泉というよりも温泉プールに近い。施設・設備も素朴で快適とは言えない。

受付のおばさんに入場券を渡して温泉内に入る。水着に着替え、荷物を受け付けにあるロッカー(1ソル、30円)に預けて温泉に入る。
温泉の湯の温度は低く、一番大きな湯船が一番暖かかったので、そこで、ゆっくり湯につかる。入った時は温かく感じたが、いつまで入っていても汗が出ない。熱い湯や快適な温泉旅館に慣れている日本人にとっては「マチュピチュ温泉」は不適だと思う。ローカル色を味わいたい人はどうぞ‥‥。

10時のチェックアウト後、妻とマチュピチュ村の散策に出かける。観光客の姿は少なく村はひっそりとしている。小さな村にもかかわらずレストラン(写真112)の数が多い。しかも、自家製釜によるピザを出す店(ピッテリア)が多い。ピザの値段が20ソル(小サイズ)〜30ソル(大サイズ)で結構高い。

昼間はお客がいないので、各店のオーナー、店員はお客をつかまえようと熱心に呼び込みをする。その中の1つ、オーナーが日本人びいきだという店(写真113)に入る。ここで軽いランチにする。食べやすいオムレツとチャーハンを注文したが結構うまい。飲み物はサービスで合計13ドル(約1100円)支払った。米ドルが普通に使えるがソルで支払うより換算率が悪くなりやや損をする。

午後1時半頃にマチュピチュ駅に行く。出発は14:12のインカレイル44号でまだ時間がある。マチュピチュ駅(写真114)は新しく近代的で、構内にはカフェもある。列車出発前になると大勢の観光客が集まり、日本人の団体も多い。

列車はウルバンバ川(写真115)に沿って走る。来た道を帰るだけであるが、列車の向きと天気が違うので結構車窓を楽しめる。飲み物とスナックのサービス(写真116)もある。

座席で一緒になったペルー人(綺麗な英語をしゃべる)によると、ここ数年間でマチュピチュ村は急に発展してきたという。観光客の数に較べてレストランが乱立して経営が難しいのでは?と質問すると‥‥「ペルーの一般庶民の物価は安く、レストランはお客を少しだけつかまえればそれでいい」という。

1皿700円〜800円というピザやパスタの値段はペルーでは相当高額なのであろう。円高の現在の為替レートでもこの値段なので、1ドル=120円、1ソル=4円程度の円安では1皿1000円を超える。マチュピチュという世界的遺産と内外価格差を利用したペルー人のしたたかな商売!午後4時10分、列車はオリャンタイタンボ駅(写真117)に到着する。

駅のホームから車の駐車場まで少し歩く。道の両側に土産物屋やホテル(写真118)が数件ある。広い駐車場に大型バスやマイクロバスが多数停まっている。ここから混載車に乗ってクスコに行く。混載車内のお客は我々の他に日本人女性が1人。世界の辺境が好きでよく1人で歩いているという。老いも若きも日本人女性は元気で勇気がある。車はウルバンバの町を抜けて山に向かう。

ウルバンバの町(写真119)が見下ろせる絶景のビューポイントで停車してもらい、写真を写す。ウルバンバは聖なる谷の中心。水が少ないクスコ周辺の人々にとって、ウルバンバ川とその流域の緑深い大地は貴重な存在なのであろう。

ウルバンバからクスコへ向かう高原道路沿いに見事な山岳風景(写真120)が展開する。ウルバンバを見下ろす絶好の峠(写真121)にて停車してもらう。峠には土産物屋があり、民族衣装を着た人々が数少ない観光客を待つ。夕方になってきたので店仕舞いをしている。民族衣装のまま1人残された子供(写真122)がなんとなく哀れな感じがする。ペルーの店の人達は観光客に押売りも積極的な勧誘もしない。ただ、店を広げて待っているのみ。(例外:マチュピチュ村のレストラン)
夕陽が沈み夜の闇が山々をおおう。クスコの夜景(写真123)が見える場所で停車してもらい写真を撮る。インカ帝国の首都、クスコ。さすがに見応えのある夜景である。そして、クスコのホテル「ノボテル」に到着する。

フロントで眺めのいい上層階の部屋をリクエストし、しばらく待つ。ねばった甲斐あって最上階4階の客室(写真124)に入る。古い外観とは裏腹に超近代的な内装に驚く。客室は広くて機能的である。カーテンを開けるとクスコの夜景が見える。バスルーム(写真125)も広くて清潔である。クスコの4星ホテル「ノボテル」は非常にいい。ここで2泊する。

 
     
F インカ帝国の首都「クスコ」
  9月17日(金)朝6時起床。昨夜は熟睡し目覚めがいい。窓の外(写真126)は雲1つない快晴に嬉しくなる。標高3400mのクスコに滞在しているにもかかわらず、頭痛や吐き気などの高山病の症状は何もない。ウルバンバ(1泊)やマチュピチュ(2泊)で高度順応したためだろうか?早速、朝食レストラン(写真127)に行く。

体調は非常に良く食欲旺盛である。ビュッフェカウンターから料理をピックアップ(写真128)して「いざ食べるぞ‥‥」。どれもうまいが生野菜がないのが残念である。朝食の最後は気分を変えてパティオ(写真129)に移動する。ここでデザートとコーヒー味わう。まるでスペイン植民地時代の貴族になった気分である。

朝8時半頃から市内観光に出かける。ノボテルホテルの前の通り「San Agustin」(写真130)の周囲は古い石並みを利用したホテル、ショップがあり雰囲気がいい。何気なく歩いていたら奇妙な石を発見した。宗教美術博物館の外壁にある「14角の石」(写真131)であった。木工細工のように互いの石がぴったり合っていて、カミソリ1枚入らない。

クスコのアルマス広場とその周囲の景観は文句なく素晴らしい。カテドラルの前から見ると、左に「ラ・コンパニーア・デ・ヘスス教会」(写真132)が堂々と建つ。正面にアルマス広場と「ラ・メルセー教会・修道院」(写真133)。右側にアルマス広場と周囲のレストラン・ショップ(写真134)、そして遠くの山々が見事な景観を成している。

民族衣装を着た子供達(写真135)が可愛かったので写真を撮らせてもらう。(有料:1ソル〜)これは彼女達の大事な仕事である。「ラ・コンパニーア・デ・ヘスス教会」に入場して内部見学する。内部は写真撮影禁止。教会2階の窓からアルマス広場(写真136)が綺麗に見える。

アルマス広場から南東に延びるエル・ソル通り(写真137)をぶらぶら歩いていく。ここはクスコのメインストリートでレストラン、ショップの他、銀行、裁判所もある。エル・ソル通りを2ブロック歩くと、「サント・ドミンゴ教会」に到る。

「サント・ドミンゴ教会」(写真138)に入りインカ帝国の石の技術を見学する。インカ・ビルディング(写真139)の中に入る。石と石の隙間はなくカミソリさえも入らないのは本当である。木工細工のように見事に刻まれた石(写真140)を見ると、インカ時代の石の加工技術がいかに凄かったかが分かる。教会の中央に広いコロニアル・パティオ(写真141)があり、パティオ(中庭)を取り囲む回廊(写真142)を1周する。

「サント・ドミンゴ教会」は別名「コリカンチャ(太陽の神殿)」と呼ばれインカ帝国の真髄である。コリとは「黄金」を、カンチャとは居所を表す。要するに黄金の宮殿である。

神殿を囲む石組の壁には金の帯がつけられ、広場には金の泉、畑には金の石が敷き詰めら、金のトウモロコシが植えられていたという。さらに、等身大の金のリャマを連れた人間像もあり、金で覆われた太陽の祭壇にはぶ厚い金の太陽像が日の光を受けて輝いていた。

侵略者スペイン人にとってこれほど嬉しいものはない。彼らはこの宮殿にあった黄金はすべて「鋳つぶして」「金の延べ棒に変えて」本国に持ち去ってしまった。一方、ヨーロッパではあまりに大量の金が一時期に流入したためインフレになったという。注:金本位制の経済なので金が増えると通貨量が増えインフレになる。

侵略者スペイン人達は目ぼしいものがなくなると、今度は神殿を破壊し、スペイン風の教会を建てていった。しかし、インカの石組みは容易に崩すことができず、インカの石組みをそのまま土台として、その上にスペイン風の町並みを建造した。

皮肉にも1650年、1950年、1986年とクスコ地方を襲った大地震は、スペイン人が建てた教会などに大きなダメージを与えたが、インカの石組みは無傷であった。今でもクスコの町の至る所で見ることができるインカの石組みは、すべてインカ帝国隆盛の時のものである。(参照:地球の歩き方「ペルー」)

侵略者スペイン人達の残虐な歴史を知ると、クスコに残るスペイン風の綺麗な建物も色あせてくる。マチュピチュのガイドさんが言っていた。「メキシコに侵略したスペイン人達はまだレベルが高くそれ程無茶はしなかった。しかし、ペルーに侵略したスペイン人達のレベルは低く残虐の限りを尽くした」と。

「マチュピチュ」は侵略者スペイン人達に見つからないように巧妙に隠され、インカ人自らマチュピチュを捨て去ることによって無傷で残った。マチュピチュはインカ帝国のシンボルとして世界中から観光客を引き寄せる訳である。

ランチ休憩の後、再び市内観光に出かける。アルマス広場に行くと午後の光がカテドラル(写真143)に当たり綺麗に見える。アルマス広場の中央に大きな噴水(写真144)がある。デザインも凝っている。時間はたっぷりあるのでアルマス広場のベンチに座り周りの風景を楽しむ。

ラ・メルセー教会・修道院(写真145)は見学する価値がある。入り口はドームの左側にあり入場券を買って中に入る。1534年建築の教会・修道院は地震で壊れ、今あるのは17世紀に再建されたものである。24本の柱とアーチに囲まれたパティオが実に美しい。パティオを囲む回廊(写真146)の壁には絵画がかかり、青い天井が不思議な雰囲気をかもし出している。

再びアルマス広場にもどって来る。アルマス広場正面に建つ「カテドラル」(写真147)に入場する。インカ帝国時代のビラコチャ神殿を破壊して、その上にカテドラルは建造された。内部は広く、金銀で贅を尽くした「祭壇」や無数にある宗教画等、見るものは多い。残念ながら内部は写真撮影禁止。

クスコ市内観光の最後に「インカ博物館」を訪れる。カテドラルの左手の急な坂道を上がればすぐに着く。入り口ではインカ帝国らしい等身大の人形(写真148)が出迎えてくれる。「インカ博物館」(写真149)は17世紀初期に建てられたコロニアル様式の建物で、かっての海軍提督の邸宅であった。

中庭の一角では数人の女性(写真150)が織物を織っている。観光客用に土産物を作っているのであろうか?館内は部屋ごとに「プレ・インカ」「インカ」「植民地時代」と、年代を追って陶器や織物などが展示されている。ただし、豪華さや驚きはないので勉強家向きの施設である。

夕暮れの「ラ・コンパニーア・デ・ヘスス教会」(写真151)。この教会はいつ見ても美しい。今日はクスコ最後の日。ペルーの旅もいよいよ終盤になってきた。妻は旅の疲れか、高山病か、頭が重いと言ってホテルに帰る。

私はアルマス広場のベンチに座り、暮れゆくクスコの風景(写真152)を味わう。見知らぬ外国でふと出会った美しい光景が心に残る。もし私が若くて独身であれば、ベンチに1人で座っている若い女性に声をかけたであろう。見知らぬ外国でふと出会った美しい女性と恋に落ち‥‥。アホ!

夜になったので、妻と夕食をとりに再びアルマス広場に出かける。広場に面してレストラン(写真153)が多数あり、どこに入ろうかと物色する。あるレストランの呼び込みのお兄さんが「ビュッフェとライブ演奏をやっていると」いうので、その店に入る。

「セビッチェ」の材料が豊富にある。珍しく寿司があったがおいしくない。肉、魚、等メインも色々あるが高山病を警戒して食べ過ぎないようにする。味はまずまず。ビュッフェ代金1人70ソル(2100円)フォルクローレのライブ演奏(写真154)の他に踊りも多数あり、お客を楽しませてくれる。

クスコの治安は良く、観光客の集まるアルマス広場周辺であれば夜でも怖くはない。ホテルへの帰路、ヘスス教会の前で気勢を上げているデモ隊(写真155)に出会った。これが数日後の大規模なスト(クスコ空港閉鎖、マチュピチュへの鉄道ストップ)の前兆とは知らなかった。明日は日本に帰る。

 
     
G 一般情報
  ◎ペルー観光情報サイト(日本語版)
http://www.peru-japan.org/

◎マチュピチュ・サンクチュアリー・ロッジ(英語版)
http://www.sanctuarylodgehotel.com/
ページ左下「English」をクリックすると日本語版がある。

◎AB-ROAD エイビーロード
http://www.ab-road.net/
ペルー旅行の格安(個人)旅行検索に最適なサイト

◎エクスペディア
http://www.expedia.co.jp/
世界のホテル予約サイト

                                        (2011年2月 掲載)