@ 美の宮殿「ルーヴル美術館」  
     
A モネの家「ジヴェルニー」  
     
B 印象派絵画の殿堂「オルセー美術館」  
     
C 18世紀の邸宅ビロン館「ロダン美術館」  
     
D 一般情報  
     
  旅行時期:2009年7月3日〜7月9日
為替レート:1ユーロ=132円(2009年7月上旬のレート)
 
@ 美の宮殿「ルーヴル美術館」
  個人旅行でもツアーでもパリに来た観光客の多くがルーヴル美術館(写真1)を訪れる。ルーヴル美術館は巨大迷路のようで、何を見たいかを事前に絞っておかないと時間を浪費する。我々はツアーの一員として朝一番に入場し、現地ガイドの解説付きで2時間くらいかけて見所を回り、その後、ツアーと別れて夕方までじっくり作品鑑賞をした。

ルーヴル美術館の3大傑作が「ミロのヴィーナス」「サモトラケのニケ」そして「モナ・リザ」であろう。この3大貴婦人を拝まずしてルーブルを去れない。

まずはシュリー翼1階の古代ギリシャ美術部門を目指す。朝早いにもかかわらず観光客が続々と通路(写真2)を急ぐ。そして、『ミロのヴィーナス』(写真3)とご対面である。美の理想を追求する古代ギリシャ美術の傑作! 深く聡明な表情と女性らしいふくよかな輪郭を持つ裸体(写真4)の美しさは他に類を見ない。このヴィーナスが今から2000年以上も前の、紀元前130年頃の作だとは信じられない。パロス産大理石製で高さが204pもある。

「ミロのヴィーナス」は1820年、エーゲ海のミロス(ミロ)島で発見された。ある時、ギリシア人の農夫がミロ島で2個の石を掘り出した。この石に興味を抱いた若いフランス人オリヴィエ・ヴーティエが、さらに他の断片を農夫に探して貰ったところ合計6個の断片が発掘された。そしてそれらをパズルのように組み合わせた彼らは、やがて上半身裸体の美しい女性像と遭遇することとなった。美しきヴィーナス誕生秘話である。

古代ギリシャ・エトルリア・ローマ美術部門の入り口(写真5)にひときわ異彩を放っている『サモトラケのニケ』(写真6)。私はこの巨大彫刻が好きである。1863年トルコのフランス副領事であった、シャルル・シャンポワゾは、エーゲ海北東に位置する小島、サモトラキにてこの特別な建造物を発掘した。「ニケ」とはギリシャ語で「勝利の女神」を意味し、「サモトラケのニケ」とは「サモトラキ島の勝利の女神」のことである。

「サモトラケのニケ」(写真7)は大きな船の上に乗っている。船の高さ200p、台座36p、全体の高さは328pもある。この巨大なモニュメントはまさに海戦の勝利を表している。「サモトラケのニケ」は海戦の勝利を祝うロドス島民の奉納品で、紀元前2世紀初頭の制作。豊かな女性の裸体が薄い布で被われ、大きな翼が海風を押し切って広げられている。体の襞(ひだ)の刻み、風による膨らみやボリュームの感覚、さらに動きの激しさなど見事な芸術性を表している。「ミロのヴィーナス」同様、今から2000年以上も前の大理石の作品である。古代ギリシャ人の芸術性は驚くべきものがある。

3人目の貴婦人、レオナルド・ダ・ヴィンチ(1452〜1519年)作『モナ・リザの肖像』に会いにドノン翼1階イタリア絵画部門に行く。愛(いと)しの「モナ・リザ」は防弾ガラスケースに入れられ、作品の数メートル先にロープが張られていて近寄れない。さらにそのまわりを大勢の人が取り巻いているので遠くからしか「モナ・リザ」(写真8)を拝めない。誠に残念。

モナ・リザの歴史は未だ闇に包まれている。モデルの素性、肖像画の発注、レオナルドが制作にかけた時間、さらには画家が作品を保有していた期間、そしてフランス王室コレクションに収蔵された経緯、これら全てが未だ明らかになっていないという。人はミステリーに弱い。

モデル「リザ・ゲラルディ」の微笑は、幸福の観念を写し出しており、レオナルドはこの観念をこの肖像画のモチーフとしていたという。手の洗練されたしぐさ、顔つきの穏やかな美しさと背景に広がる想像上の風景、モナリザは私にもミステリアスな微笑を投げかけてくれる。

その他の作品

◎古代エジプト美術部門にある『タニスの大スフィンクス』(写真9)‥‥古王国時代(紀元前2620〜2500年)花崗岩、183×480×154p、12トン。エジプトのスフィンクスは、ライオンの体と王の頭部を持った巨大な「生きる王の像」であり、エジプトの敵陣に対して己の権力を誇示している。

◎ファラオ時代のエジプト部門にある『ラムセス2世坐像』(写真10)‥‥ラムセス2世は、古代エジプト新王国時代第19王朝のファラオ(在位:紀元前1200年代)で、その治世において、エジプトはリビア・ヌビア・パレスチナに勢力を伸張し、繁栄した。ラムセス2世は「アブ・シンベル神殿」「カルナック神殿」「ラムセス2世葬祭殿(ラムセウム)」等多数の建造物を残している。

◎古代オリエント美術部門入り口にある『有翼人面牡牛像』(写真11)‥‥アッシリア帝国サルゴン2世の治世(紀元前721〜705年)のもの。この巨大な彫刻は首都と宮殿の門を守る守護神で、アッシリア王サルゴン2世の栄誉をたたえて建設された。

◎メソポタミア美術部門にある『ハムラビ法典』(写真12)‥‥紀元前18世紀前半、バビロン第1王朝時代。第6代王ハムラビが、太陽神シャマシュの前に立ち、法典を授与されている場面が刻まれている。その下には「目には目を、歯には歯を」の条文が‥‥。

◎古代イラン美術部門にある『アパダナの大斗』(写真13

◎ミケランジェロ(1475〜1564)作「奴隷」。‥‥鎖に繋がれた2体の大理石の捕虜像。1体は非常に若く美しく、眠りに身を任せているように見えるが、多分永遠の眠りであろう。この像は『瀕死の奴隷』(写真14)と名付けられた。もう1体は、より荒々しく、身をよじって震えた体で抵抗する姿を表しており『抵抗する奴隷』(写真15)と呼ばれている。この2人の捕らえられた人物は未完のままである。

◎フランス彫刻部門の「マルリーの中庭」にあるギヨーム・クストウ(1677〜1746年)作『馬丁に制される馬』(写真16)‥‥大理石、高さ355p。マルリー王宮の庭園の水飼い場のためにクストウは、裸の男に抑えられる荒馬の2つの群像を製作した。

◎ドラクロワ作『民衆を導く自由の女神』(写真17)‥‥1830年7月27日、パリの民衆は三色旗を掲げて街頭にバリケードを築き、3日間のうちに革命(フランス7月革命)を成功させる。7月革命を目撃したドラクロワは熱い想いを込めてキャンバスに、この大作を描いた。お見事!

◎ジャン=オーギュスト・ドミニク=アングル(1780〜1867)作『オダリスク』(写真18)‥‥アングルの代表作で、女性の裸体の洗練された官能と、写実的な衣類や装身具の描写が素晴らしい。

◎ジャック=ルイ・ダヴィッド作『レカミエ夫人』(写真19)‥‥作中のレカミエ夫人(1777−1849年)は当時23歳であったが、その美貌と彼女の主催するサロンゆえに既に最も賞賛されていた女性の一人であり、革命後の新しいエリート階級の社会的地位の向上を象徴する人物であった。

作品紹介はきりがないので、最後にドノン翼2階のアポロン・ギャラリー(写真20)を紹介してルーブル美術館を終了する。

 
     
A モネの家「ジヴェルニー」
  パリの西方約70km、セーヌ川沿いの町「ジヴェルニー」は、印象派の画家クロード・モネ(1840〜1926)が晩年を過ごした町として知られる。モネ晩年の名作『睡蓮』の生まれた現風景を見たい、という妻の願いをかなえるために、ジヴェルニーに出かけた。今回は時間短縮のためマイバス社のツアー「印象派モネの家ジヴェルニー半日観光」に参加。一人65ユーロ(8580円)。

朝8時、パリ・オペラ座に近いマイバス社から大型バスで出発。お客は全員日本人で日本人の現地ガイドがつく。パリには日本人対象の観光バス会社が数社(一般情報参照)あり、様々な観光バスツアーを行っている。よって、これらを利用すればパリの個人旅行は言葉の心配なく気楽に楽しめる。ただし、かなり割高になる。

パリからバスで1時間半くらい車窓を楽しんでいるうちにジヴェルニーに到着。駐車場からモネの家に向かう小道(写真21)を進む。周りは緑豊かな公園の雰囲気でいい感じである。モネの庭は自宅前の「フランス風の庭」と「水の庭」に分かれていて、地下道でつながっている。

まずは、水の庭に通じる水路(写真22)の脇を通って、モネの家の見学からはじめる。モネの家(写真23)のまわりは鮮やかな花で囲まれており、自宅前のフランス風庭園(写真24)にはバラが咲き誇っている。ここにいるだけで幸せな気分になる。

モネの家の内部には、彼が集めた膨大な「浮世絵コレクション」が飾られている。残念ながら、内部の写真撮影は禁止なので紹介できない。モネがジヴェルニーに移り住んだのは1883年(明治16年)、彼がまだ無名だった43歳の頃である。以来、86歳(大正15年)で亡くなるまでここで仕事を続け、見事な“日本庭園”を造り上げていく。

時間がないので館内の見学は簡単に済ませて、本日の最大の目的である「水の庭」に行く。モネが造り上げた美しい水の庭園(写真25)をじっくり見学する。岸辺には大きな柳が植えられ、湖面に睡蓮の花が咲いている。そして、遠くに青い「太鼓橋」が見える。これはまさしく日本庭園である。モネがいかに日本を愛していたかがわかる。

湖面に咲く赤い睡蓮や白い睡蓮(写真26)を見ながら池を一周する。色々な角度から池(写真27)を眺め、ベンチで一休みする。ここからの眺め(写真28)も素晴らしい。ツアーは忙しい。集合時間に遅れないようぎりぎりまで水の庭(写真29)を味わう。

なぜモネが生涯をかけて“日本庭園”を造り、日本の浮世絵を集めたのか?また、印象派の巨匠ゴッホも、貧しい中、500点もの浮世絵を収集したという。何故なのか?実は明治期の日本とヨーロッパには深いつながりがあったのである。

日本人の大好きなヨーロッパ印象派の絵画を理解するためには、19世紀末のフランスを中心としてヨーロッパで巻き起こった、日本芸術の一大運動「ジャポニズム」を学ぶ必要がある。以下、ウイキペディアより引用する。

「ジャポニズムは単なる一時的な流行ではなく、当時の全ての先進国で30年以上も続いた運動であり、欧米ではルネサンスに匹敵する、西洋近代的な美意識と科学的遠近法の大きな変革運動である。

黒船来航により開国した日本に、西洋からの商船が押し寄せ、当時発達しつつあった写真技術と印刷技術により、日本の様子が西洋に広く知られるようになった。他の美術工芸品とともに浮世絵という版画がヨーロッパとアメリカでまたたく間に人気を博するようになった。特に19世紀中頃の万国博覧会(国際博覧会)への出品などをきっかけに、日本美術が注目され、印象派やアール・ヌーヴォーの作家たちに影響を与えた。

ジャポニズムの第一段階は日本の美術品、特に浮世絵版画の熱狂的な収集から始まる。その最初の例はフランスのパリであった。葛飾北斎や喜多川歌麿を含む日本の画家の作品は絶大な影響をヨーロッパに与えた。日本では文明開化が起こり、浮世絵などの出版物が急速に衰えていく一方で、日本美術はヨーロッパで絶大な評価を受けていた。

日本美術から影響を受けたアーティストにはピエール・ボナール、マネ、ロートレック、メアリー・カサット、ドガ、ルノワール、ホイッスラー、モネ、ヴァン・ゴッホ、カミーユ・ピサロ、ポール・ゴーギャン、クリムトなど数え上げたらきりがない。

音楽に関しては、ジャコモ・プッチーニの有名な『蝶々夫人』がジャポニズムの影響を受けている。また、ウィリアム・ギルバートとアーサー・サリヴァンによる有名なオペレッタ『ミカド』は、ロンドンのナイツブリッジで行われた日本の展示会から着想を得たものである。」以上、ウイキペディアより引用。

14〜15世紀のイタリアを中心として巻き起こったルネッサンス。それは古代ギリシャ・ローマの再発見による。「ジャポニズムがルネッサンスに匹敵する」とは何と言うすごさ。知らなかった‥‥。浮世絵なくしてヨーロッパ絵画の繁栄なし。日本人よ、もっと誇りを持ってヨーロッパの美術館を訪れようではないか。

 
     
B 印象派絵画の殿堂「オルセー美術館」
  パリ滞在中にオルセー美術館に行き、じっくり美術鑑賞をしてきた。
オルセー美術館(写真30)はセーヌ川に面する絶好の場所にあり、コレクションも逸品ぞろいで、特に、日本人に人気の印象派の作品の宝庫である。オルセー美術館内ではフラッシュを使用しない写真撮影は黙認だったので、日頃、本でしか見たことのない名画の数々をカメラに納めてきた。オルセー美術館訪問の参考として見て頂ければ幸いである。

オルセー美術館は非常に人気があるので開館(9:30)前には美術館に行き、チケット売り場の列に並ぶ。入場料12ユーロ(ロダン美術館入場券を含む。1584円)を払って入館する。さっそく日本語音声ガイド(5ユーロ、660円)を借りる。これは本当に便利でガイドなしで、しっかりした作品説明が聞ける。

オルセー美術館の中央通路(写真31)は、当初はオルレアン鉄道の終着駅として造られたもので、中央通路と円形天井に鉄道駅の面影が残る。まずは、中央通路にそって作品鑑賞をする。

◎『ヴィーナスの誕生』(写真32)‥‥凝った構図、緻密な手法、正確で詳細な歴史画で有名なアレクサンドル・カバネル(1823-1889年)の作。『ヴィーナスの誕生』は出品したサロンで絶賛されナポレオン三世が購入したという。見事な若き女性美!ブラボー!
◎トマ・クチュール(1815-1879年)の『退廃期のローマ人』(写真33)‥‥3年間かけて制作、道徳的退廃を批判。絵画の大きさに驚愕!
◎ギュスタヴ・ギヨメ(1840-1887年)の『砂漠』(写真34)‥‥19世紀のナポレオン・ボナパルトのエジプト遠征でオリエントの国々の謎めいた扉がヨーロッパ世界に大きく開いた。ギヨメはアルジェリアが気に入り、乾燥し太陽が照りつけるこの国の運命、自然の荒々しさを『砂漠』で表現した。
◎シャルル・ド・トウルヌミーヌ(1812-1872年)の『アフリカ象』(写真35)‥‥オリエントへの旅の思いを緻密でつやのある鮮やかな色合いで表現。
◎ジャン=バティスト(1814-1883年)の『蛇にかまれた女』(写真36)‥‥美しくもエロティックな構図に、ついカメラのシャッターをきる。

《ジャン=フランソワ・ミレー(1814-1875年)の作品》
◎『晩鐘』(写真37)‥‥ミレーの幼少の頃の想い出。農村の日常の風景。美術の中で農民が重要な地位を占めるようになったのは、産業拡大による農村人口の都市への大移動と、その結果としての彼らの「望郷」に起因している。
◎『落ち穂拾い』(写真38)‥‥夕暮れ時、人間への愛情と人間への理想を表現。1849年以降、ミレーはフォンテーヌブロー森の外れに位置する村バルビゾンの画家グループ(バルビゾンの画家たち)に参加する。グループは重要テーマとして風景を取り上げ、森、沼、畑等の現実素材を描く習慣を取り入れた。

《エドウアール・マネ(1832-1883年)の作品》
◎『草の上の昼食』(写真39)‥‥1863年のサロンに応募した際、マネはすでに芸術家や批評家たちから新機軸画法を探求するグループのリーダーと思われていた。しかし、同時に、自由で簡潔な技法と近代生活に着想を求めた首題を批判する者たちもいた。サロンにて『草の上の昼食』は落選。
◎『黒い帽子のベルト・モリゾ』(写真40)‥‥黒を多用し光と影によってモデルの知性と情熱が生き生きと表現されている。ベルト・モリゾはマネのお気に入りのモデル。
◎『浜辺にて』(写真41)‥‥印象派は19世紀のアカデミー派に反発して生み出された新しい前衛的美術で、マネはその先駆者(初期印象派)である。何気ない日常の同時代を描く。マネは絵画の新しい方向を示した。

◎William Bouguerea(1825-1905年)の『Naissance de Venus』(写真42)‥‥10代の娘のあまりにも美しいビーナス像に見とれる。

オルセーのコレクションは素晴らしいが、中階にあるレストラン「ミュゼ・ドルセー」(写真43)は名画に匹敵するレストランである。 11:30のオープンとともに入店し窓側の席に座る。見上げれば巨大なシャンゼリアと素晴らしい天井壁画(写真44)。ヨーロッパの宮殿でのランチタイムである。まずはドリンク。名画鑑賞の疲れをいやすためにカフェオーレ(3.4ユーロ)とコーラ(3.7ユーロ)を注文。心豊かなランチタイムのはじまり。

食事は一番シンプルで安い「Today`s menue(16.5ユーロ、2178円)」を注文。メインの鳥料理(写真45)を味わう。見栄えはいいが、味はくどくてまずい。付け合せもフレンチフライではなく×。デザート(写真46)は卵白を使ったフワフワのムースで、これも×。実に高くてまずいランチだった。しかし、レストランの店内の雰囲気は抜群なのでティ−タイムに利用するといいかもしれない。

食事の後は本格的に「印象派」の名画鑑賞に出かける。上階のレベル5に印象派・後期印象派の名画が勢ぞろいしている。上階から中央通路(写真47)を見下ろすとオルセー美術館が駅構内を改造して造られた様子が分かる。せっかくジヴェルニーのモネの家を訪問し、モネや印象派の勉強をしたので、まずはモネの作品をしっかり鑑賞する。

《クロード・モネ(1840-1926年)の作品》
◎『Le pont d Argenteuil』(写真48
◎『セーヌ川にかかる橋、石炭をはこぶ労働者』(写真49
◎『川辺の風景』(写真50)‥‥モネは雲と水の命、大気の流動する揺らめき、微妙な反映、光が生む移ろい効果に熱中する。
◎『アルジャントウイユのセーヌ河畔』(写真51)‥‥ 川辺の風景、雲がぽっかり浮かんでいる。鮮やかで、生き生きとした空と雲の流れで全体を覆いつくしている。
◎『戸外の人物習作(左向きの日傘の女)』(写真52)‥‥この時期に、モネは一瞬の光景の解釈に没頭し、輪郭がかすかにわかる程度の人物を包む光の描写をとらえようとする。
◎『戸外の人物習作(右向きの日傘の女)』(写真53)‥‥この時期に、季節、時間、気候、光によって変動する同じ素材を描くという考えが生まれた。
◎『ロンドンの国会議事堂、霧を貫く陽光』(写真54)‥‥ モネがロンドンに滞在中、ロンドンとテムズ川の風景を連作的に製作した作品中の1つ。

《ピエール=オーギュスト・ルノワール(1841-1919年)の作品》
◎『ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏場』(写真55)‥‥この作品はモンマルトルの丘の頂上、風車の足元にあった大衆飲み屋で現地制作したもの。彼は太陽の反射を、生い茂る葉を通して描写することに熱中した。
◎『Chemin montant dans les hauters herbes』(写真56
◎『婦人の横顔』(写真57
◎『婦人の顔、ベール』(写真58
◎『都会の踊り』(写真59)‥‥実物大の大きさで『都会の踊り』、『田舎の踊り』2部作の1つ。
◎『水浴する女たち』(写真60)‥‥ルノワール最期の作品。

《フィンセント・ファン・ゴッホ(1853-1890年)の作品》
◎『自画像』(写真61)‥‥自分の印象について、常に不安げに問いかけた連作の後期作品。
◎『自画像』(写真62
◎『星月夜』(写真63)‥‥ ローヌ河岸で描いたコバルトブルーの幻影的画像、街灯が照らす夜あるいは星がキャンバスいっぱいに広がっている。
◎『オーヴェールの聖堂』(写真64)‥‥表現力豊かで壮麗な色、螺旋状で流動的な形がオーヴェールの村の平穏な聖堂を劇的で荒々しい素材に変えている。
◎『アルルのゴッホの部屋』(写真65

1888年、ゴーギャンは南仏アルルでゴッホと共同生活を試みる。しかし、2人の強烈な個性は衝突を繰り返し、ゴッホの「耳切り事件」をもって共同生活は完全に破綻する。

◎ポール・ゴーギャン(1848-1903年)の『タヒチの女たち』(写真66)‥‥ 1891年4月 、西洋文明に絶望したゴーギャンは楽園を求め、南太平洋(ポリネシア)にあるフランス領の島・タヒチに渡る。作品『タヒチの女たち』はゴーギャンが初めてタヒチに到着して間もない頃の作品で、タヒチの光景を目の当たりにして、彼の喜びに満ち溢れた雰囲気が出ている。

その他の作品
◎エドガー・ドガ(1834-1917年)の『舞台のバレエ稽古』(写真67
◎ポール・セザンヌ(1839-1906年)の『婦人とコーヒー沸かし』(写真68)‥‥ 興奮も感情もなく静物画のように人物を扱っている。

 
     
C 18世紀の邸宅ビロン館「ロダン美術館」
  ロダン美術館はオルセー美術館の南西1kmくらいの場所にあり、両方の美術館を歩いて回れる。チケットも共通なのでオルセー美術館見学のあと、ロダン美術館(写真69)に行く。

ここは、ロダンが1908年から1917年に亡くなるまで過ごした「ビロン館」で、現在はロダンの作品を一堂に集めた美術館となっている。ビロン館の庭園は3ヘクタールにわたって広がり、館をはさんで、北のバラ園と南の大花壇(写真70)に二分される。バラ園ではちょうどバラが咲き乱れ実に美しい。ここに、ロダンの代表作が屋外展示されている。

まずは、ロダンの作品中、最も有名な『考える人』(写真71)と対面する。バラ園のイチイの植え込みの中央にあるのですぐ分かる。考える人自身が180pの大きさがあり、さらに高い台座の上に乗っているので細部は良く分からない。台座が少々高すぎる気がする。残念ながら感動なし。

「考える人」の横に『バルザックに捧げるモニュメント』(写真72)がある。大胆な単純化と豊かな表現力により、20世紀彫刻のさきがけとなる作品のひとつとされている。

次に、『カレーの市民』(写真73)の前に立つ。1884年、カレー市はロダンに、百年戦争のとき英軍に包囲された町を救うために身を捧げた6名の名士のモニュメントを注文した。ロダンはこれら市民が敵の陣営に向かい、各自が自身の死を考えている瞬間をテーマにし「カレーの市民」を製作した。台座がなく、2mを超すモニュメントが鑑賞者(私)と同じ高さに置かれているので、苦悩するカレーの市民の表情がよく伝わってくる。これは素晴らしい。

そして、ロダンの作品の原点とも言える『地獄の門』が『アダム』と『イブ』に挟まれる形で立っている。ロダンはダンテの「神曲」から「地獄の門」のテーマを選び、この扉に地獄の劇的情景を描いた。地獄の門の高さは635p、横幅は400p、様々な人物像が描かれており、扉の中央上部、最も大事な場所に「考える人」がいる。よって、「考える人」の考えている事は重い!

これらを観賞してからビロン館に入る。以下、館内の作品を紹介する。

◎『接吻』(写真74)‥‥ロダンは1886年に自身の「地獄の門」の群像からこの像を取り出した。この時の第1バージョンは1887年に公開され、評論家たちから「接吻」と名付けられた。この接吻は大好評を博し、国が1889年パリ万博のために大理石像を注文したほどであった。大理石像は1898年に展示された。
◎『永遠の青春』(写真75)‥‥ほとばしる情熱に身を任せ、激しく抱擁する男女の姿。永遠なる愛と青春の象徴、そして究極のエロス。この作品も「接吻」に劣らず素晴らしい。
◎『永遠の偶像』(写真76)‥‥ロダンは「女性は霊感の源泉」だと考えており、この作品を製作した。男性なら本能的に理解できる。◎『歩く男』(写真77)‥‥彼は人体の必要な部分だけを取り上げながら、肉体の持つ表現力を引き出して鮮やかに示してみせる。「歩く男」では、その地面にしっかりと立つ足に動きの連鎖と持続性、空間を歩んでいく経過が感じられる。
◎『三つの影』(写真78)‥‥この作品はロダンの「地獄の門」の上部につけられた3体の男性像で、もともとは「アダム」という一人の男性像を、3人作って並べたものである。
◎ゴッホ作『タンギー爺さん』(写真79)‥‥ロダンは印象派の画家ゴッホやルノワールの作品を収集している。タンギー爺さんの背景には日本の浮世絵や富士山が描かれており、ゴッホにおけるジャポニズムの影響の強さが見られる。
◎『花子』(写真80)‥‥花子(本名:太田ひさ)は、1868年(明治元年)生まれ。二度の結婚に破れ途方にくれているとき、デンマークのコペンハーゲンの展覧会で踊り子を募集している事を知り、34才の時、単身ヨーロッパへ渡った。ロンドンのサヴォイ劇場でアメリカ人の舞踏家ロイ・フラーに見い出され、「花子」という芸名で一座の座長に、そして花子は18ケ国を巡業し、一躍スーパースターになった。ロダンは花子の凄まじい演技に創作意欲をかきたてられ、花子をモデルにしたロダンの肖像彫刻は50数点にものぼった。ジャポニズムがなければあり得ないことであろう。

ビロン館南には広い大花壇(写真81)がある。ここは1993年に再整備されたもので、池、芝生、菩提樹の並木はそのまま残し、18世紀の自然観をよみがえらせる構成になっている。ロダンは、彫刻によって真の自然描写を成し遂げようとした。そのロダンの想いが実現されたように、深い菩提樹の木々の間にロダンの作品(写真82)が沢山展示されている。それらを一通り見て回り、最後にカフェテリア(写真83)で休憩し、ロダン美術館を後にした。

 
     
D 一般情報
  《パリの日本人向け観光バス会社》
◎マイバス
http://www.mybus-france.com/home.html
◎みゅうバス
http://www.myu-info.jp/sight/france/par_myutour.09w.html
◎シティラマ
http://www.pariscityrama.jp/

《美術館のホームページ》
◎ルーヴル美術館
http://www.louvre.fr/llv/musee/alaune.jsp?bmLocale=ja_JP
日本語版があるので非常に利用価値がある。
◎オルセー美術館
http://www.musee-orsay.fr/en/home.html
日本語版なし
◎ロダン美術館
http://www.musee-rodin.fr/welcome.htm
日本語版なし

                                        (2010年3月 掲載)